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第ニ節

「30歳まで童貞のままなら魔法使いになる」というインターネット・ミームを意図して世間に広めた――と主張するのは、
2001年当時、再生医科学第二研究センターの副所長を務めていた早坂義夫である。

三十代で国立大学の准教授――就任当時は助教授と呼ばれていた――に就任した
選り抜きのエリートである彼は後年、「方向性を仕込んでおきたかった」と述懐している。

「ノストラダムスの預言」を真に受けて1999年に世界が滅びると本気で信じ込んでいた知人が居たことが、早坂のアイデアの元になった。
荒唐無稽の噂話をあらかじめ広めておくことで、それが現実化したときの混乱や差別を避けられる――とまでは言えなくとも、一定の指向性を与えることが出来る、と考えたのである。

2001年の段階で「魔法使い」を予見出来ていた人間が、国内に彼一人しか居なかった以上、それくらいしか出来ることが無かったのは確かだろう。
早坂の「仕込み」が一定の功を奏したことは、今となっては疑う余地が無い。


ガイウス・ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」に、
「長く童貞をまもった者には、賞賛が待っている」という言葉が出てくる。
ゲルマニー人は禁欲によって肉体が頑強になると考えていたからだという。

童貞の喪失時期と心身への影響の相関について、定例的に分析した研究資料は世界的に見ても少ない。
(アイナー・エルステッドをリーダーとするデンマークの医学者グループが論文を発表してイグノーベル賞を取った、というような例外的事例は存在する)

それゆえか、最初の「魔法使い」達が世に現出し、彼らの共通点が「中年童貞」だと知られた段階で「禁欲が力となった」という説が広く巷間を流れた。
この説の支持者は、前述の「ガリア戦記」の記述から「カエサル派」と呼ばれることになる。

「性行為の機会が無いことと禁欲的であることにはほとんど関連性が無いし、その程度のことで力が得られるなら、もっと沢山の魔法使いが太古から世界中にいないとおかしい」という、極めて真っ当な反論がなされたが、それでも「カエサル派」は一定の支持を得ており、医学的・生物学的に否定された現在においても一種の宗教的結束をもって存続している。

最初に学術的見地から「カエサル派」に反論したのは、五十路をとうに過ぎていた早坂だった。
彼は論文において、「魔法使い」の発症が急性脳症の症状によるものと断定した。


「童貞」は性交を経験していない男性を指す――と明確に定義づけられている一方で、その「喪失」については、性器の挿入可否や射精の有無等、見解に揺らぎがある。

「魔法使いの資格」という意味で言えば、性器を挿入した瞬間に
免疫細胞を獲得してしまう(性感染症と異なりラテックスの薄膜を浸透するためコンドームの有無は影響しない)ことから、そのタイミングを「童貞喪失」と定義出来る。

男性器の先端数ミリを一瞬挿入(接触とほぼ同義)するだけでも「喪失」に該当する。
男性同士の性交においても、片方が非童貞であれば「喪失」が可能であることが確認されているが、キスやオーラルセックスでは「喪失」は発生しない。
また、動物姦では「喪失」出来ないことは検証済だが、屍姦については研究事例が存在しない。

誤解されがちであるが、発症は「30歳」に限られているわけではなく、「統計的に30~35歳にかけてが一番多い」というだけである。
最年長で72歳、最年少で29歳のケースがそれぞれ存在する。

免疫細胞を取得しない状態――すなわち童貞のまま加齢していっても確実に発症するわけではなく、更に発症したとしても「魔法使い」にならずそのまま死亡する可能性のほうが圧倒的に高かった。

この「童貞維持リスク」が明確となってからの五年間は、性犯罪の案件数及び性風俗関連特殊営業の届出数が日本国内で急増したという統計がある(五年後からは横ばいになり、近年は減少傾向にある)。

厚生労働省が作成した「近年の発生動向」には、「発症者が魔法使いになる割合は0.05%を下回る」と要約できる文章が存在するが、統計母数の少なさと集計方法の偏向について批判も多く、信憑性には疑問が残る。

早坂義男は、国家が「魔法使い」という概念を認知し、その取り扱いについての計画・指針を策定し、官庁や警察の現場レベルまで落とし込んでいく激動の十年間の中で、主導的立場にあり続けた。

2015年には「国立非認知物理学研究所」が設立され、早坂はその初代所長に任命された。
当該施設は、日本の歴史において七十年振りに産み落とされた、国家統制下の「人体実験施設」として、後世に大きな悪名を残すことになる。